歴史的勢力変化の過渡期
アジアにおいて、歴史的な勢力変化が起こりつつある。中国の急速な台頭と日本の相対的な勢力低下である。朝鮮半島における統一の動き、中国による台湾統合の動きがこれに彩りを添えている。国際的な勢力変化は、とりわけ、新たな地域的または国際的な秩序やシステムが生まれるような時代にあっては非常に不安定をもたらしがちで、場合によっては、大規模な戦争が起きたりする可能性もある。このような複雑な激動の時代に、日本がこの地域でどのような戦略を持つべきか、従来の冷戦時代の思考枠組みから脱却して、自由にかつ真剣に模索することが求められている。
『文明の衝突』の著者であるハーバード大学のサミュエル・ハンチントン教授は、「日本のアジアにおけるリーダーシップを考えると、悲観的だ。日本は長期的には中国に追随していかざるを得ない。日本は明治以来、その時々の大国に追随する政策をとってきた。長い間、主体的な外交戦略を打ち出せずにきた。通常、国際関係は地理的に近い周辺諸国との交流が優先されるのだが、日本は足元のアジアより、つねに欧米との関係を重視してきた。国際的なバーゲニングパワーを発揮するための足場となるアジアにおいて日本は孤立している」(日本経済新聞 2001年1月7日 )と述べている。この言葉は、重要な意味をもっている。中国に追随せずに、主体的に外交を展開するためには、「アジアにおいて孤立している」現状から脱し、アジア諸国の人々から信頼をかちとることが不可欠になる。
これほどアジアの近隣諸国との経済交流が進み、これらの国に経済援助などを注ぎながら、依然として、「アジアにおいて孤立している」と云われる原因はいくつか考えられる。第1に、戦争責任の問題をドイツのように正しく処理することが出来ないでいること、第2に、米国に依存する余り、アジアにおいて主体的な外交戦略を展開できなかったこと、第3に、戦後、欧米諸国へのキャッチアップを重視するあまり、自国の経済的利益以外の価値を軽視してきたため、尊敬されるべき哲学がない国(国民)とのイメージを持たれてしまったことであろう。これらの原因を正しくみつめ、それを改めることに全力を注ぐことが不可欠である。
アジア地域において歴史的な勢力変化が起こりつつある不安定な時期に、日本がとるべき外交戦略は、上記に加え、第1に、米国のこの地域にたいする関心とプレゼンスを維持すること、第2に、中国を国際社会に組み入れ、中国社会の国際化・民主化を促すとともに、中国との経済交流、人的交流を拡大し、両国間の摩擦を最小限に抑えること、第3に、韓国との全面的な交流を一層促進するとともに、北朝鮮との対話のパイプを拡大し、信頼醸成を図ること、第4に、アセアン諸国の経済社会発展と統合を促し、日本との関係を一層強化することが重要と考えられる。東南アジア諸国に対する戦略を最後に掲げたが、重要度の順番を意味しているわけではない。むしろ、日本がアジア地域における孤立から脱するために、また、アジア地域の平和と安定を維持・発展させるために、最も重要な外交目標はこの東南アジア諸国にあると云っても云い過ぎではない。したがって、次に日本の対東南アジア政策のあり方になどついてみてみたい。
揺れ動く日本の東南アジアでの影響力
1990年8月、同国政府の経済政策に長年かかわってきたタイの著名な経済学者は、日米両国の駐タイ大使主催のレセプションへの参加者数の変化などを具体例に引きながら、「日本の東南アジアにおける影響力がかってないほどに高まっている一方で、米国の同地域における影響力が大きく低下している」との感慨を筆者(江橋)にもらした。当時、日本の経済は、バブル崩壊前の絶頂期にあり、日本の東南アジアへの直接投資水準もピークに近かったときであった。
ちょうどこの1年後、筆者が参加した日米共同研究プロジェクトの米国側パートナーの一人であったコロンビア大学教授のひとりは、日本企業の近隣アジア諸国への進出ぶりをみて、「日本は円高や地価の高騰、経常収支の大幅黒字を背景に、直接投資という手段を用いて東アジア全域を統合しようとしている。とてもアンフェアなやり方だ」とワシントンで筆者にその憤懣をぶつけてきた。
日本企業の東南アジア進出は、プラザ合意後の円高による国内産業の競争力の喪失がきっかけとなっており、決して日本政府の「深慮遠謀」によるものではないはずだが、たしかにこの頃、米国のエスタブリッシュメントの多くは、同教授のように、日本主導の「新たな大東亜共栄圏」がアジアに事実上形成されることを真剣に懸念していたようである。
実際、民主党政権の対外政策に影響力を持つハーバード大学のジョセフ・ナイ教授(前国防次官補)は、90年に書いた著書 "Bound to Lead:
The Changing Nature of American Power"(『不滅の大国アメリカ』、読売新聞社)のなかで、冷戦後の米国の戦略構想として、<1>東欧におけるソ連帝国の衰退を改革の過程で分裂や暴力が生じないようにうまく手助けし、民主化を促進する、<2>西欧の安全保障を改めて確約し、過去70年間に3度も戦争を引き起こしたドイツ問題を解決する、<3>日本の経済力の興隆をコントロールして、この興隆がアジア地域の軍事的投資に動揺をもたらさないようにする、ことをあげ、アジア地域での日本の「覇権」を阻止することを米国の重要な戦略の一つとして提言している。当時、米国経済は弱々しく、勢いのあった日本との間で貿易摩擦が激化していたうえ、冷戦および共産主義の事実上の終焉で、米国の軍事力の傘の有効性は著しく減退していたこともあって、日本において「対米自主外交」や「脱米入亜」の考えが一層強まった時でもあった。
他方、東南アジア諸国は目覚ましい経済発展を背景に国際舞台での発言力を大いに高めつつあった。ASEAN諸国間の団結と協力の度合いは増し、APEC(アジア太平洋協力会議)やARF(アセアン地域フォーラム)で主導的役割を果たすようになった。自国経済の将来についても、楽観的な論調が主流となり、シンガポールはもちろん、アセアンの先発国であるタイ、マレーシアも、もはや日本の経済援助(円借款)は不要との姿勢を示すようになった。このため、日本は、援助なしにこれらのアセアン諸国にどのような外交を展開していったらいいのか新たなアプローチを模索していた。また、シンガポールのリー・クアンユー上級相やマレーシアのマハティール首相は、アジア地域の経済発展が秩序と安定、規律、家族や社会への責任、勤勉、質素倹約、集団主義などを重視する「アジア的価値」のせいであり、それは経済の停滞、犯罪の増加、教育の荒廃、家庭の崩壊などをもたらしている「西洋の価値」よりも優れたものであるという主張をしばしばするに至った。
「政府主導の日本型の経済運営モデル」を採用してきた東アジア諸国が、その経済的成功で自信をつけ、米国に対する交渉力をますます高め、ついには、「アジア的価値」まで主張して「欧米の普遍的価値」に挑戦するに至ったことは、米国にとって、いたく威信を傷つけられることになった。こうした事情もあり、91年にマレーシアのマハティール首相により提唱されたEAEG(のちにEAEC:東アジア経済協議会)構想は、「日本主導のアジア・ブロックをつくるもの」と見られ、米国の強い拒否にあった。
アジア経済危機と新・宮澤構想
しかし、その後、わずか数年でアジアの情勢は一変した。1991年以降の日本経済の長期不振は、「日本神話」の威力を急速に失わせることとなった。一方、90年代半ば以降の米国経済の再活性化は、グローバリゼーションや情報技術革命の進展と相まって米国のこの地域での影響力を再び高めるうえで大きな力を発揮した。加えて、97年7月のタイ・バーツ危機以後のアジアの経済危機は、IMFを通じてアジア地域における米国の立場を一層強大なものにした。
他方、その後も自国経済の建て直しにいつまでも有効な手を打つことができない日本は、当時の円安傾向も手伝ってアジア諸国のいらだちを買い、これまでに培った日本のこの地域での影響力のかなりを失ったようにすらみえた。中国や米国は、日本が力強い景気浮揚策を取らず、円安を利用して輸出を拡大することで自国の経済再建を図ろうとしていることがアジア経済の回復を遅らせている元凶だとして、日本を責めた。アジア経済危機は、ある意味で、日本のこの地域における「覇権」を懸念していた米国や中国にとって、好都合でさえあったようにみえた。また、97年9月にIMF総会で日本が提案した「アジア通貨基金(AMF)構想」は、短期の流動性危機に対処するため、介入のための外貨流動性の相互流通などを目的に約600億ドルの基金を持つ、ASEAN諸国・日本・中国・韓国の通貨当局からなる協議体をつくろうと云うものであった。結局、この構想は、日本のこの地域における主導的地位の確立を危惧する米国、中国の反対でつぶれたが、ASEAN諸国側からのサポートも弱かった。
しかし、アジア通貨危機が深刻化する中で、アセアン諸国や韓国の日本の支援への期待は再び膨らんだ。橋本首相(当時)が97年5月に提案し、同12月に行なわれた第1回日本・ASEAN首脳会合でのアジア経済危機克服のための橋本提案は大いに歓迎された。ちなみに、通貨危機前の5月に日本・アセアン首脳会合を日本が提案したときには、その開催にアセアン諸国の反応は今ひとつであり、結局、アセアン側は、日本・アセアンだけでなく、中国・アセアン、韓国・アセアンの各首脳会合をあわせて行なうという逆提案をして、日本・アセアン首脳会合を受け入れた経緯がある。
1998年10月、「新宮澤構想」が日本、韓国、アセアン5カ国の蔵相・中央銀行総裁会議で発表された。韓国およびアセアン5カ国を対象に、1)景気対策などの中長期資金支援150億ドル、貿易金融などの短期資金150億ドルの合計300億ドルの資金を支援する、2)日本輸出入銀行の保証機能の活用や新設する「アジア通貨危機支援基金」による利子補給で各国の資金調達を支援する、ことをその内容としたものである。日本のアジア支援策は、それ以外にも経済構造改革支援、社会的弱者支援、人材育成支援、留学生対策など多岐にわたり、タイ、インドネシア、韓国にたいするIMF救済パッケージへの貢献(総額190億ドル)を含めると総額約800億ドルドルにものぼった。これらの日本の積極的な支援策は、ある意味では金融危機下で経営困難に陥った現地日系企業支援という側面をもっていたことは否定できないが、韓国やアセアン諸国から高く評価されるに至り、ようやくこの地域における日本の役割が改めて再認識されることとなった。
他方、IMFの処方箋に対する批判に加え、米国の「人権、民主主義、透明な市場経済」などの米国の価値の押し付けに対し、アジア諸国の反感も高まった。また、98年8月末のロシアの通貨危機とその中南米への波及、米国ヘッジファンドLTCM(Long-term
Capital Management)社の倒産を目の当たりにして、その後、明らかに米国はスタンスを変えた。「日本経済はすでに懸念するほどの強さはなくなり、むしろ病んでいる。通貨危機の世界への波及を食い止めるには、アジアの再建は日本に任せるほかはない」との判断に傾いたと考えられる。その結果、EAECが想定したメンバーである「アセアン+3首脳会議」が99年11月に正式に発足したうえ、2000年5月には、このメンバー域内での通貨スワップ取り決め(チェンマイ・イニシャティブ)が合意された。この通貨スワップ取り決めは、97年につぶれたアジア通貨基金構想に将来的につながる可能性をものであるが、これに対しても、米国は黙認している。
米国の東南アジア戦略と日本
クリントン政権下の米国の対アジア政策は、日本のこの地域での政治的役割の増大を防ぐほか、北東アジアにおける安全保障のための米軍のプレゼンス維持、アジア市場の開放などが目標であったと考えられる。とりわけ、クリントン政権は、米国経済の再活性化のために、ダイナミックに成長するアジア太平洋、とりわけ、エマージング・マーケット(新興市場)に向けて投資と輸出機会を増やすことに傾斜した。そのため、APEC(アジア太平洋協力会議)の場を使って、貿易・投資の自由化、経済への政府介入の排除、自由な市場資本主義化を図る戦略を採用することとなった。そして、93年のシアトルでの非公式首脳会合を境に、APECを「ルースな協議体」から「よりフォーマルな交渉のためのフォーラム」に変質させることに成功した。アジア諸国の多くは、それに乗り気ではなかったが、94年のボゴール宣言で貿易・投資の自由化の期限を決めたときからAPECのアジェンダ(重要課題)は事実上、米国規範に変質した。
その結果、1)経済協力、2)貿易・投資の自由化、3)円滑化(基準・認証などのハーモナイゼーション)を3本柱にしながら、自由化が先行した。それに加えて、肝心のアジア通貨危機に際に、APECの経済協力はほとんど機能しなかった。これに対するアセアン諸国の批判は厳しく、APECへのアセアン諸国の期待は急速にしぼんだ。また、自由化にしても、日本が農林水産業やサービス業などの国際競争力の弱い部門で自由化に消極的であることが全体の足を引っ張り、そのうえ、アジア通貨危機以降、アセアン諸国の多くは貿易自由化に消極的になった。
「米国的制度と価値」いわゆる米国的スタンダードを世界やアジアにおいて普及・定着させるといういわゆる「ソフトパワー」(軍事力や経済力以外のパワーで、新たな秩序や制度によって影響を与えること)戦略について云えば、アジア通貨危機はクリントン政権にとって、米国的スタンダードを植え付けるその格好の機会となった。インドネシアのスハルト独裁政権を終らせることに成功し、次は、マレーシアのマハティール政権に向かった。しかし、マレーシアでは失敗に終った。カンボジアでもフンセン政権を終らせようとしたが、うまくいかなかった。ミャンマー軍事政権も制裁から13年を経ても終わらせることができないでいる。そればかりか、「米国的価値や制度の強制」とのアジア諸国の反発を呼んだうえ、民主化後のインドネシア情勢の混乱は、IMFを使った米国の民主化戦略に対して、米国内でも一部批判を生んだ。
2001年1月に誕生したブッシュ政権の対アジア政策は、前政権と比べ、以下のような特徴をもつと考えられている。第1に、アジア重視である。前政権が外交エネルギーをロシアや欧州に注いだのに対し、アジアにより注意を注ぐとみられている。第2に、民主主義や人権などの「普遍的価値」を実現するためと云う理由で、ボスニア、コソボ問題に介入した前政権と異なり、ブッシュ政権は、他国に口出しするのを減らすことで不要な対立・摩擦を抑え、国益と密接にかかわるもののみに介入を限定するとみられている。第3に、中国に対する扱いの変化である。前政権は、「戦略的パートナーシップ」として中国を扱い、日本を意図的に軽視した。多分、日本のアジア地域での「覇権」を中国以上に警戒したせいかもしれない。これに対し、ブッシュ政権は、日本との同盟関係を重視し、中国を「戦略的競争相手」とみなしている。中国の軍事拡大とアジア地域での急速な勢力拡大により警戒的になっているとみられる。第4は、9.11同時テロ事件以降に新たに加わった政策だが、米国の安全保障の観点から、あらゆるテロ活動とテロリストを生み出す土壌となっている貧困の撲滅に注力するようになった。この関連で、イラン、イラク、北朝鮮に対する厳しい姿勢が打ち出されている。ブッシュ政権下の政策環境はクリントン政権時と比べると、日本が東南アジアにおいて独自の哲学に基づいた外交を展開するうえで、以前より選択の幅が広がり、より自由な環境になったと思われる。
動き出した中国・アセアンFTA(自由貿易協定)構想
2000年11月、シンガポールで行われたアセアン・中国サミットにおいて、中国の朱鎔基首相は中国とアセアンの自由貿易協定を提案して各方面の注目を浴びた。その後、2001年3月にはアセアンと中国との間で専門家グループが設置されるとともに、その下にリサーチ・チームがつくられ、中国のWTO加盟の影響やアセアンと中国のFTAによる両地域への影響などの分析が行われた。
2001年10月、専門家グループは、<1>10年以内にWTOルールに合致したFTAを形成する、<2>金融、観光、農業、人的開発、中小企業、産業協力、知的所有権、環境、林業・林業製品、エネルギー、地域開発などの分野での協力拡大、<3>非関税障壁の撤廃、税関手続きの簡素化、基準・認証の相互承認、ビザ手続きの容易化、投資協定・2重課税防止協定の締結、電子商取引の容易化などの貿易・投資促進措置、<4>アセアンの非WTO加盟国への特別の配慮、<5>作業計画実施のための制度上の機関の設置、などを内容とする包括的な経済協力の枠組みを提言、翌11月にブルネイで開かれたアセアン・中国サミットで、同協力の枠組みは正式承認されるに至った。今後、中国・アセアンの高級事務レベルでFTAのスコープと内容をより具体的に協議し、2002年秋のサミットで合意したうえで、条約交渉を開始する手順となっている。
しかしながら、中国・アセアンFTAの合意に至る過程は必ずしも平坦なものではなかった。中国の提案に当初から賛成したのは、シンガポール、タイ、ブルネイのみで、それ以外の国、とくにマレーシア、インドネシア、フィリピンは「中国に飲みこまれる」と消極的であった。これに対し、中国側はまずアセアンの新規加盟国(カンボジア、ラオス、ミャンマー、ベトナム)に対し、<1>FTA創設後にも5年間の猶予期間を与える、<2>WTO未加盟国であるカンボジア、ラオス、ベトナムに対し、WTO加盟国と同様の扱いをする、<3>中国との貿易拡大のために必要な技術支援とキャパシティビルディングの提供を行う、という譲歩を行ない、合意を取り付けた。また、マレーシア、インドネシア、フィリピン、タイなどから、FTA創設以前に中国がアセアン諸国の農産物に関する先行的関税引き下げ(early
harvest)を行なうよう要求があったのを受け入れて、これら諸国の合意を取り付けた。このように、中国の固い政治的意思と強力なリーダーシップがあってはじめて、アセアンとのFTA構想が前進するに至った経緯にある。
中国とアセアン諸国の貿易額は91年の79億ドルから2000年の395億ドル(アセアンの対中輸出が222億ドル、中国の対アセアン輸出が173億ドル)へ、この10年に年率20.4%平均で増加したが、日本・アセアン貿易と比べると、まだ約3.5分の1の規模に過ぎない。また、中国のアセアン諸国への直接投資額もアセアンへの外国投資流入額の約1%(99年)と小さい。
専門家グループの報告書(Forging Closer ASEAN-China Relations in the 21st Century)によると、中国・アセアンFTAの完成により、アセアン諸国の対中輸出額は130億ドル(基準年次95年比48%増)増加し、アセアン諸国の実質GDPを0.9%引き上げる。一方、中国の対アセアン輸出額は106億ドル(同55.1%)増加し、中国の実質GDPを0.3%押し上げる。しかし、このFTAにより域外国への輸出が減少するいわゆる輸出転換効果を考慮に入れると、アセアン諸国の輸出総額(対世界)は56億ドル(1.5%増)、中国の輸出総額(対世界)は68億ドル(2.4%増)の増加にとどまる。また、短期的には、双方の国内市場において競争が激化し、労働者のレイオフ、中小企業の淘汰・再編などの調整コストがかかる可能性も指摘している。
しかし、17億という世界最大の人口を抱えるこのFTAの形成により、<1>アセアン諸国と中国との間で共同体意識が生まれる、<2>東アジアの経済安定を支え、新たな経済危機を防止する役割が期待できる、<3>EU、NAFTA(北米自由貿易協定)などが保護主義に向かわないよう東アジアの交渉力を高めることができる、<4>域内・域外からの投資を引きつけることができる、<5>双方の企業に競争や戦略的連携を促すため、中長期的には効率性・生産性の向上が期待できるとしている。このように、中国・アセアンFTAは中国にとっても、アセアンにとってもその経済的効果は小さいことから、むしろ政治的効果をねらったものと受けとめられている。
中国の意図
これまで多国間の枠組みへの参加に消極的だった中国がアセアンとの自由貿易協定を提案した際、各方面から一種の驚きをもって受けとめられたことは事実である。たしかに、APEC(アジア太平洋経済協力)、ARF(アセアン地域フォーラム)、ASEM(アジア欧州会合)などのアジア地域での多国間の枠組みに参加はしているものの、これらの場での発言は消極的で、中国の存在は目立たなかった。97年9月、アジア通貨危機を収束させ、アジア経済の安定を図るために日本が「アジア通貨基金構想」を提案した際も、中国が米国と一緒に反対したことは記憶に新しい。中国が、日本や米国が入った多国間枠組みに消極的であった背景には、こうした場での交渉に不慣れで、これら両国のリーダーシップに翻弄されるという懸念があったことに加え、WTO加盟交渉に人的資源の多くが割かれ、余裕がなかったという側面もあったと見られる。
しかし、97年頃から中国はしだいにアジア地域での多国間枠組みに、より積極的にかかわるように変わっていった。「アセアン+3首脳会議」は、97年にクアラルンプールで開かれたアセアン30周年記念の首脳会議に日中韓の首脳が招待される形でスタートしたが、98年には、早くも中国の胡錦涛国家副主席はアセアン+3の財務相代理・中央銀行副総裁会合を開催するよう提案している。また、99年には「アセアン+3首脳会議」にあわせて「日中韓首脳会議」を開くことに同意し、マニラで開催された第1回首脳会議に出席、2000年11月の同首脳会議の際、朱鎔基首相は日中韓のITワーキンググループ会合の設置を提案している。さらに、2001年10月に上海で行われたAPEC会合では、中国はホスト国としてリーダーシップを発揮、同会合を成功に導いた。
中国のアジア地域の多国間枠組みへの姿勢の変化をもたらしたのは、なんといっても、97年〜98年のアジア通貨危機であったと思われる。アジア諸国で連鎖的に通貨・金融危機が発生、香港ドルも投機筋から激しい攻撃を受けたばかりでなく、アジア通貨の下落で中国の輸出競争力が相対的に低下し、中国経済にも間接的に多大の影響をもたらした。このため、中国経済の安定と発展はアジア地域の命運と一体であり、中国としてもこの地域の安定に主体的にかかわる必要があるとの認識を改めてもつに至ったと考えられる。
第2に、長年の念願であったWTO加盟が99年11月の米中合意で実現の見込みに至ったことが大きい。WTO加盟は中国にとって、「チャンスとリスク」の両面をもつ歴史的な選択であったが、グローバル化の恩恵を最大限享受するとともに、グローバル化のリスクを最小限に抑えるためにも、アジア地域での協力拡大が不可欠と認識されるようになったと思われる。WTO加盟の実現はまた、この交渉に割かれていた貴重な人的資源を解放することになり、アジア地域における多国間交渉の場で中国がリーダーシップを発揮する国内的環境が整ったという側面も持っている。
第3に、中国の急速な発展に、貿易・投資などの側面で中国と競合する東南アジア諸国の間で「中国脅威」の懸念が高まりつつあったことも大きい。中国の発展が東南アジア諸国の発展に大きく貢献するという側面を強く打ち出すことで、「中国脅威論」を払拭し、潜在的に有望な東南アジア市場への経済進出を円滑に進めるほか、この地域における政治的主導権を確固たるものにしたいというねらいもあったと考えられる。アジア金融危機の最中に、中国が公約通り人民元を切り下げなかったことで周辺諸国や米国の称賛を浴び、国際社会での地位の向上を実感できたことは、中国にとって、この地域でのリーダーシップを発揮するうえで大きな自信になったと思われる。しかも、日本が長期にわたる経済低迷でこの地域における影響力を低下させているばかりでなく、農産物の自由化問題がネックとなってアセアンや韓国などとのFTAを実現できそうにないという状況は、中国にとって、この地域でイニシアティブを発揮する願ってもない機会であったといえよう。
中国の東南アジア諸国への積極的な取組みは、FTA構想にとどまらない。2002年3月に訪中したインドネシアのメガワティ大統領に対し、4億ドルの特別借款を約束したことは、中国の援助政策の大転換ともいえる画期的な出来事である。国連加盟をめぐり、台湾と競う形で主としてアフリカ諸国に援助攻勢をかけた60年代末〜70年代初期以降、中国の援助活動は、北朝鮮、パキスタン、ミャンマーなどの1部の国を除きしばらく沈滞していたが、ここにきて援助活動を再び大規模に展開する方針を固めたものと思われる。国際社会での発言力の強化とエネルギーなどの資源確保がねらいだが、中国の当面の援助重点地域は東南アジアと中東産油国にあると考えられる。
日本の新東南アジア政策「日本・アセアン包括的経済連携構想」の評価
2002年1月14日、小泉首相は東南アジア5か国訪問の最後にシンガポールで、日本として初めてのFTA(自由貿易協定)である「日本・シンガポール新時代経済連携協定」に調印、その後、日本の対アセアン外交・地域協力に関する政策スピーチを行なった。このなかで、小泉首相は、1)アセアンの経済改革支援、2)東南アジアの貧困削減・紛争予防への積極協力と「国境を越える問題」に共同して取組むこと、3)未来のための協力として、具体的に以下のイニシアティブを提案した。
・教育、人材育成分野での協力(大学交流、IT技術者育成、制度づくり、行政能力向上、裾野産業育成など)。
・2003年を「日・アセアン交流年」として、幅広い交流を実現する。
・「日・アセアン包括的経済連携構想」(貿易、投資、科学技術、観光等幅広い分野での経済連携の強化)。
・「東アジア開発イニシアティブ」(地域の繁栄と発展のため、今後の開発のあり方について、共に考えるための会合の開催)。
・テロ、海賊対策、エネルギー安全保障強化など安全保障面での日・アセアン協力の強化
また、これに加えて、地域協力の将来として、アセアン+3の枠組みや日中韓の3国協力の枠組みを最大限活用するとともに、オーストラリア、ニュージーランドを含む「東アジア拡大コミュニティ」を指向すべきとの考えを明らかにした。
このうち、日・アセアン包括的経済連携構想は、今後、事務レベル(経済連携強化専門家グループ)で具体的提案をまとめ、2002年11月カンボジアで開催予定の日・アセアン首脳会議での合意をめざすこととなったが、期限を切って協定を目指すのか、FTA(自由貿易協定)を最終的に視野に入れるのか必ずしも明確でなく、アセアン諸国の反応はいまひとつ盛り上がりに欠けた。アセアン側は、日本がこうした構想を打ち出した背景には、中国が先に打ち出したFTA構想への対抗意識があったと見ているが、日本が農業分野の貿易自由化を約束できないため、このような漠然とした構想にとどまったと、日本がこの地域におけるリーダーシップを発揮できないでいることに失望の念を隠せないでいる。
小泉首相の日・アセアン包括的経済連携構想を具体化するための専門家グループ会合は、2002年3月末までに2度開催されたが、アセアン側にはFTAを視野に入れ、投資やサービスの自由化、ICT技術などの分野を含む協力強化を求める声が強い。しかし、日本の農林水産省が農産物を含むFTAに難色を示していることから、すべての品目を対象としたFTAをめざすことを明言するのは困難な状況にある。
ちなみに、シンガポールとのFTAは、日本のシンガポールからの輸入に占める農水産品(関税率ゼロ%以上のもの)の比率が全体の4.2%(2000年度)と小さかったことから、GATT24条の規定に整合的なFTA(10年以内に貿易の約9割を関税ゼロにする)を結ぶことが可能になった。しかし、シンガポールとのFTA交渉の過程で、日本の農林水産省はすべての農水産品をFTAの対象から除外することを強く主張した。結局、現行で実効関税率ゼロの農水産品を自由化の対象に入れても日本の農業に実害はないと説得、農林水産省がそれらの品目(約40品目)に限って農水産物をFTAの対象に入れることで妥協した経緯がある。
日本は、これまでGATT・ WTOを通じた多角的通商システムの強化という通商政策を堅持し、地域統合を進める世界の大多数の国と一線を画してきた。しかし、98年11月に韓国側から日韓自由貿易協定構想の共同研究の提案があった頃を境に、「多角的通商システムを補完する観点から、域内の相互交流・相互理解を深めつつ、より積極的に地域連携・統合に取り組み、多角的通商システム強化に積極的に寄与するモデルを示していくことが必要」(平成11年度版通商白書)と、初めて、これまでの通商政策の転換を明確にした。その政策転換の第1号として、2002年1月にシンガポールとのFTAが締結され、また、すでに韓国、メキシコ、チリとFTAの研究が進められている。世界の主要30カ国のなかで、地域貿易協定を結んでいなかった国・地域は、これまで、日本、中国、韓国および台湾地域だけであったが、いまでは、いずれの国(地域)もFTAに向かって進み出している。
拡大するヨーロッパ、米州のブロックから取り残されたアジア・オセアニア地域において、日本がそれら諸国を巻き込んだ地域貿易協定を構想し、長期的に実現をめざすことは重要である。そのねらいは、<1>世界の地域主義がブロックによる保護主義へ転換した場合や近年のアジアの通貨危機のようなケースが再発した場合、アジア・オセアニア地域経済が不安定になることを防ぐこと、<2>この地域の人的交流、相互理解を促進し、この地域諸国相互間のパートナーシップを築くこと、<3>ヨーロッパ、米州に対するバーゲニング・パワーを強化し、ヨーローッパ・米州のブロック化を牽制すること、などにある。小泉首相の「日・アセアン経済連携構想」やオーストラリア・ニュージーランドを加えた「東アジア拡大コミュニティ」構想はこのようなねらいを背景としている。
日本・アセアンFTAの推進を
10年後をめざし、中国・アセアンFTAの交渉が進展するなかで、中国とアセアン諸国との対話が進み、両者の関係はより緊密になる可能性がある。日本は、政府開発援助、貿易、投資などの面で、これまでアセアンとは中国以上により緊密な経済関係を築いてきた。この関係を一層強化するために、日本がシンガポールと結んだFTA(新時代経済連携協定)と同様の貿易・投資のみならず、金融、情報通信技術、人材育成といった分野を含む包括的なFTAをアセアンとの間に締結する方針を明確に打ち出すべきである。FTAによって、物品・人・サービス・資本・情報のより自由な移動が可能となり、両者の経済が一層活性化され、双方の経済改革に刺激を与えるほか、両者の政治外交関係を緊密化し、両国民の相互理解を促進する効果が期待できるからである。これまで、アセアン側に日本とのFTAに対し、その調整コストの大きさや日本企業による産業支配への懸念などから大きな躊躇があったが、中国とのFTAに合意した現在では、その懸念が薄らいでいる。それどころか、むしろ、アセアンの側から日本とのFTAを望む声が強まっている。こうした機会を見逃してはならない。
すでに、経済産業省は2009年〜2010年頃までにシンガポールと結んだと同様のCEPA(Closer Economic Partnership Agreement:経済連携協定)をアセアンとの間で締結することを視野に入れていると伝えられるが、望ましい選択といえる。また、アセアン全体とのFTAを目指しつつ、発展段階など事情が国によって大きく異なるため、並行してタイやフィリピンなど可能な国と2国間でFTA交渉を進める方針とも伝えられる。結局、日本とアセアン各国との2国間協定を寄せ集める形で日・アセアンFTAが完成に至る可能性もあろう。
図 は、アジア地域をめぐるFTAの動きをまとめたものである。日・アセアン、日・アセアン2国間、日・韓、アセアン+3、中国・アセアンなどのFTA交渉がアジア地域において今後、同時並行して進行することになる。他方、APECの場では、ボゴール宣言により、APEC先進国は2010年までに貿易・投資を完全に自由化することになっているため、先進国である日本・韓国とAPEC加盟のアセアン諸国、中国、台湾とは2010年までに事実上、自由貿易協定が実現していることになろう。したがって、日・アセアン、日・韓、アセアン+3、中国・アセアンの各FTAは、2010年にはいずれ統合されることになる可能性が高いといえる。
農業の自由化は可能か
日本が今後、上記のようなFTA戦略を展開するうえで、大きな障害として立ちはだかっているのが農水産物の自由化問題であることはすでに見たとおりである。農水産物の貿易自由化を一定の経過期間内に段階的に進めるのではなく、これらをFTAの対象から完全に除外することを農林水産省は強く主張しているからである。仮に、農水産物を除外した場合、WTOルールの条件に合わないため、農水産物を輸出している多くの国と日本はFTAを結ぶ道が事実上閉ざされることになり、FTAを使った通商戦略の選択の幅が大きく制約されることになる。
ちなみに、アセアンからの日本の輸入関税状況(2000年度、特恵関税適用、HSコード9桁べース)を経済産業省の資料でみると、関税率ゼロ以上の農水産物の全体に占める比率は、アセアン10カ国合計では8%、タイが19.1%、マレーシアが0.7%、フィリピンが9.9%、インドネシアが6.2%、シンガポールが4.2%となっており、タイを除くと、以外に小さいことが判明した。
しかし、農林水産省は、農業の自由化問題はWTOの多角的貿易交渉の場以外では全く取り上げないとの基本的立場を堅持している。WTOの交渉の場では、農業の自由化に消極的なEUと協調して戦うことができるため、農業保護を維持できるとの判断からであろう。そして、多角的交渉の場で「農業の多機能性」(食糧安全保障、環境保護など)を強く主張し、自由化に反対している。
農業の自由化に反対する勢力は、農漁民を背景とする農林水産省や自民党のいわゆる農林族だけではない。「零細農漁民の側に立つ」という共産党やその他の野党も含め、地方出身の国会議員は大方、自由化に反対である。このため、農林水産省は、とくに農協などの農業団体をバックにした自民党の農林関係議員の圧力にきわめて弱く、貿易を含む農業政策についてほとんど当事者能力を失っている状態と言える。
日本における農業従事の労働人口は、全体のわずか5%(96年)、農業生産はGDPの約2%しか占めていないが、日本の国政への影響力はきわめて大きい。その背景は、いくつか考えられる。第1に、一票の全国格差問題がある。第2に、地方の投票者の行動様式が保守的で、常に現職が有利という傾向が強く、一度当選すると票の維持が容易である。このため、どうしても当選回数の多い議員は地方出身者となりがちで、また、彼らが政党のリーダーとなる傾向がある。他方、都市の投票者の政策関心は多様で、移ろいやすい。したがって、都市出身の議員は、現職閣僚であっても票を維持することが困難である。この結果、地方の声が国政に大きく反映されることになる。第3に、歴史的に地方経済は農業のウェイトが高かった。このため、農産物の消費者でさえも農業保護の政策に傾く傾向があった。農業の地方経済に占めるウェイトが低下した現在においても、地方の投票者の思考様式にあまり変化が見られない。また、多くの地方で、農業が依然として最大の産業になっており、農民の購買力が地方の景気を左右するというところも多いとみられる。
しかし、日本がこのまま、非効率な農業を保護し、貿易自由化を拒否し続けることは得策ではないことは明らかである。大規模農場の導入など米作を中心に経営合理化を推進するほか、米作からより競争力のある作物への転換を促すことが不可欠である。また、転換が容易でない競争力の乏しい作物や業種に関しては、すべて輸入制限で対応するのではなく、補助金で所得を保障することも検討すべきであろう。自国の経済のマイナーな部分を占める農業保護のために、より大きな日本の長期的な国益が失われるという愚は避けなければならない。FTA交渉にあたって、いま一度、農水産品に関し、何が日本にとって真にセンシティブであるのか、いつまで保護が必要なのか、輸入制限でなく補助金で救済することはできないのかなどをできるだけ、自由化の方向でレビューすることが不可欠である。日本にとって重要な国とのFTA交渉が日本の「アンタッチャブル」と言われるこの農業分野の改革を迫る好機になると考えられる。FTAを困難な国内改革を実施する手段ととらえるという政治的手法も十分考慮に値する。
しかし、農林水産省が「農業の多機能性」を多角的貿易交渉の場で主張していることに関し、これを単に「自由化を阻止するための口実」とみる見方は必ずしもあたっていない。国民の側にも、将来の食糧供給に対する不安や安全性に対する不安から輸入自由化に消極的な意見が多いことを見逃してはならない。また、山間地の水田などの環境の保全も大切な課題である。これらの課題に対して、具体的な対策を着実に積み上げていく必要がある。例えば、食糧安全保障を確保するため、APECの場あるいはFTA締結国とともに、食糧の共通在庫を持つことも検討されて良い。輸入食糧・食品の安全性に対する国民の懸念に対しても、輸出国と共同で何らかの対策が講じられる必要があろう。
まとめ
アジア通貨危機後、東アジアにおいてさまざまな地域協力の枠組みが動き出した。アジア通貨危機は、東アジアの経済相互依存の進展により一種の運命共同体となりつつあることを改めて認識させるとともに、共通のアイデンティを高め、統合を促進する作用をもたらしたといえる。97年に日本の提案で始まった日・アセアン首脳会議は、その後、「アセアン+3(日・中・韓)首脳会議」の枠組みの正式な誕生(99年)をもたらし、この枠組みのもとで、外相会議(99年)、財務相会議(99年)、経済閣僚会議(2000年)、労働大臣会議(2001年)、農林大臣会議(2001年)が定期的に開かれるようになった。2000年5月タイ国チェンマイで開催された財務相会議では、域内での金融協力の枠組み(国際収支危機や短期の流動性危機に陥った国に対する資金支援のための通貨スワップ取り決めで、「チェンマイ・イニシアティブ」と呼ばれる)が誕生した。2000年10月の経済閣僚会議では、日本の提案に従って、<1>貿易・投資・技術移転加速化のための努力強化、<2>情報技術・電子商取引に関する技術協力の促進、<3>中小企業・裾野産業の強化、の3分野を協力の優先分野とすることが合意され、その後、ITスキル標準化のための「e-アセアン+3」など具体的なプロジェクトが動き出している。
また、99年マニラで初めて開催された日・中・韓首脳会合は、その後、「日中韓3国間協力」の枠組みをもたらした。この枠組みのもとで、これまでに、経済協力共同研究、環境大臣会合、ITワーキング・グループ会合、特許庁長官政策対話会合、政府機関による共同研究、国際金融協力セミナー、北東アジア港湾局長会合、郵政ハイレベル会合などがスタートしているほか、2001年11月の3国間首脳会合では、経済大臣会合、財務大臣会合、外相会合を開催することに合意している。
東アジアにおけるこれらの地域協力の枠組みに加え、すでに見てきたとおり、中国が2000年11月にアセアンとのFTAを提唱、日本が2002年1月にアセアンとの経済連携強化構想を打ち出した。懸案だった日韓FTAの政府間の事前研究も始まった。この結果、東アジア地域内の経済連携が一気に加速するきざしがある。
中国がFTAによってアセアンとの政治・経済関係の強化に本格的に乗り出した背景は、すでに見たとおり、経済よりむしろこの地域での影響力の拡大という政治的動機に基づいていると思われる。明らかに、日本を意識した行動ともみられる。たしかに、中国の台頭を背景に、アセアン諸国での中国の存在感はこの数年で急速に高まっている。他方、日本への期待や日本の存在感は大きくしぼんでいるようにみえる。現実を見ると、中国とアセアン諸国の経済関係は日本との関係と比べるとまだ大きなものではない。しかし、ベトナムと中国の貿易がこの2年で急増しているように、今後、中国とアセアンとの貿易はかなりのスピードで発展する可能性がある。中国は、輸出入銀行の投融資をつけて中国企業の東南アジア進出を支援しており、潤沢な外貨準備を背景に中国からの対アセアン投資も今後、急拡大する可能性もある。
たしかに、今後の東南アジアにおける中国の対応は注目に値する。今後、日本と中国が東南アジアで協力を競う局面が多く見られるようになろう。健全な競争は、この地域の発展にプラスに作用する。しかし、日本は、中国とこの地域での影響力を争う愚は避けなければならない。援助、貿易、投資のいずれをとっても、日本の東南アジアにおける存在は群を抜いている。それだけに、日本は東南アジアの安定と発展に責任をもっている。日中韓の対話と協力、アセアン+3の枠組みをベースに日本がリーダーシップを発揮して、中国とアセアンの関係を健全かつ円滑なものに導くことが求められている。中国・アセアンFTA、日本・アセアン経済連携協定、日韓FTAはいずれ、東アジア地域全体をカバーするFTAに統合されることが望ましい。その際、とりわけ、発展の遅れたアセアンの新規加盟4カ国(カンボジア、ラオス、ミャンマー、ベトナム)に対して、特別な配慮が必要である。東アジアの最も弱い輪であるこれら4カ国の発展とアセアン先発諸国への円滑な統合がこの地域の安定に不可欠だからである。
なお、EU、NAFTAの枠組みに入っていないオーストラリア、ニュージーランドをとり込んだ小泉首相の「拡大東アジアコミュニティ構想」は興味深い。これら両国を東アジアの枠組みに入れることにアセアン諸国の1部に反対があるが、日本にとっては、先進国としてのシステムや価値観の多くを共有する心強い友人であるだけに、これら両国を含めることは日本が対アジア外交を展開するうえで有利に働こう。
参考資料:アジア地域の自由貿易地域取り決めの動き
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