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東アジア懇談会

東アジア自由ビジネス圏から東アジア共同体へ
〜汎東アジアの呼びかけ〜
2003年1月
ジェトロ海外調査部長
山田 康博

汎(パン)ヨーロッパから汎東アジアへ
汎ヨーロッパといってもアジアでご存知の方は殆どいないだろう。オーストリア・ハンガリー帝国の貴族、クーデンホーフ・カレルギー伯爵が、1922年ベルリンとウイーンの新聞に寄稿する形で提唱した"ひとつのヨーロッパ"、すなわち統合欧州をめざす運動である。第一次大戦後の疲弊し没落した欧州の現状を憂い、統合欧州の建設によってのみ、相戦う戦争を避け、かつ、勃興する米国、日本、ソ連に対抗しうる欧州の再興が可能であるとの論旨である。当時カレルギー伯爵は若干28歳。無名といっていい存在であった。記事を読んで賛同してきたのはわずかに51名であったとされ、実際、最初は反響も殆どなかったようである。翌23年に単行本「パンヨーロッパ」を刊行する。同書は鹿島守之助博士により日本語訳され、汎ヨーロッパに関する基本文献となっている。同書によれば「全欧州の青年に告ぐ」との書き出しで始まる同書には一冊ごとに「パンヨーロッパ連合に加入します」と印刷した同伯爵宛の葉書が添えられた。このときは、刊行後1ヶ月で100名以上の申し込みがあったという。
若きカレルギー伯爵はこの構想を、当時のオーストリア政府を手始めに、根気強く各国の政府、政治家を訪ね説いてまわり、その後ドイツのシュトレーゼマン外相、フランスのブリアン外相、エリオ首相、英国のアメリー自治領殖民大臣など欧州の有力政治家の理解と支援を次第に得るようになる。1924年にはハンブルクの大銀行家の支援を受けて機関紙の発行が開始され、1926年には第一回汎ヨーロッパ会議が開催される。しかし、1933年ドイツ首相となったヒットラーは汎ヨーロッパ運動を禁止、また、多くの欧州人がドイツとヨーロッパ共同体を作ることに抵抗したため、同運動は英国を除いて低調になっていく。カレルギー自身も第二次世界大戦中ナチスの迫害からニューヨークに逃れ、同地から汎ヨーロッパ運動を続ける。第二次世界大戦終了後スターリンが汎ヨーロッパ運動に反対を唱えたため、同綱領も力を失ったかに見えたが、1946年チューリヒにおけるチャーチルのヨーロッパの団結を訴える演説で再び血路を開く。その後1947年に欧州議員会議が開催され、1949年にはストラスブルグに欧州評議会が設置される。その後の紆余曲折は省略するが、同運動は1952年の欧州鉄鋼石炭共同体(ECSC)、1958年の欧州経済共同体(EEC)、欧州原子力共同体(URATOM)創設に結実し、欧州統合の精神的礎となった。
昨2002年はカレルギー伯爵が汎ヨーロッパを提唱してちょうど80周年。同年4月12-14日ウイーンとプラスチラバでパンヨーロッパ80周年記念行事がコール前ドイツ首相その他欧州から要人が参加して盛大に開催された。最終日はメッテルニヒの「会議は踊る」で有名なホーフブルク宮殿である。ウイーン出張中だった私も機会を得て参列した。欧州統合の中興の祖でもあるコール前首相がカレルギ−の功績を称えつつ、欧州統合の意義を熱っぽく語り、EUの東方拡大に関連してさまざまな議論はあるが「もはや後戻りはできない」ことを強調したのが印象的であった。
また、汎ヨーロッパ国際運動が、ソ連崩壊、冷戦終焉に際して1989年にハンガリーに脱出した東ドイツ難民をハンガリー・オーストリア国境に集め、国境の両側でピクニックを組織することで国境の緊張感を減じ、検問所も見てみぬふりをする中で、難民661名を脱出させることに成功したこと、旧ユーゴで人権を踏みにじられたイスラム教徒を救ったセルビア牧師の顕彰など欧州の人権問題やさらにはマケドニアの平和的独立にも一定役割を果たしていることなど、今日においても欧州の地域安定に寄与していることをこの式典で知った。あらためて、1922年の理念が今日においても息づいていること及びその普遍性を再認識した次第である。なお、カレルギー伯爵の母は日本人青山光子である。

東アジアにおける統合の機運
カレルギー伯爵の著書「パンヨーロッパ」を日本で翻訳し、広く紹介されたのは鹿島守之助博士である。同博士は1961年の再販の序において「元来本書はクーデンフーフがヨーロッパを救済する唯一の手段として、ヨーロッパの青年達に対しヨーロッパ団結の必要を説き、その奮起を促したものである。私は同様の希望すなわちアジアの団結を、わが国青年広くはアジアの青年訴えたい」と、汎アジアを提唱されている。しかし、当時のアジア情勢をみれば、"ひとつのアジア"という言葉はあまりに非現実的だったのだろうと思われる。
それから約40年、ここに来て、東アジアに、今日、地域経済統合の動きが、急速に浮上している。鹿島博士が想定されたアジアのうちの東アジア地域であるが。また、経済統合といっても経済緊密化(CER)の段階や自由貿易地域(FTA)あるいはFTAと投資規制緩和を組み合わせた包括的経済連携(CEP)など動きは様々である。また、その組み合わせもサブリージョナル(複数国間あるいは国―地域間)、リージョナル(地域全体)など様々である。長年にわたり、多数国間の自由貿易システムの堅持に重点をおき、自由貿易協定に消極的であった日本も2002年シンガポールとの間でFTAを含む経済連携協定を締結した。中国もASEANとの間で2001年からFTA交渉を開始している。ASEANプラス日中韓全体をカバーする地域経済統合の動きも、ASEANプラス日中韓首脳会合の場で議論が始まっている。
ここでいう東アジアとはASEAN、日本、中国、韓国で、そして台湾、香港、マカオ、北朝鮮という地理区分となろう。カレルギー伯爵も汎ヨーロッパを語るとき地理的区分、政治的区分、社会文化的区分からヨーロッパの定義を詳述している。カレルギー伯爵も「パンヨーロッパ」の中で指摘するようにインド大陸は独自の世界である。また、同様にアルタイ山脈の向こう側のキルギスタン、ウズベキスタン、カザフスタンの人々は我々と顔も似ていて親近感をもつが、文化的な違いが大きすぎる。アルタイ山脈の東側、即ち東アジアは人種的にも同一であり、アイデンティを共有しうる最大の地域圏である。仏教、儒教、漢字使用との要因を重ねていけばマレーシア、インドネシア以外がここに入る。特に中国、ベトナム、朝鮮半島、日本の文化的同一性はキリスト教ヨーロッパに近いと思う。したがって、東アジアとはASEAN10カ国プラス日中韓および台湾、香港、マカオ、北朝鮮と整理すべきではないだろうか。とりわけ80年代以降実体経済の動きもこのゾーンで活発化してきており、一大経済圏として枠組みができつつある。
この東アジアワイドの地域経済統合の萌芽はマレーシアのマハティール首相が1990年12月に提唱した東アジア経済圏(EAEG)構想に遡る。この構想で同首相はASEANに日本、韓国、中国、台湾、香港、インドシナ諸国を加えて域内貿易・投資の政策協調をめざそうとした。先進国主導のAPECに対する不信感、GATTウルグアイラウンド交渉が米国とEU主導で行われていることへの反発から日本、中国、NIESと共に、ASEANが欧米と対等に発言できることをめざした。しかし米国のベーカー国務長官は日ごろからアジア民族主義の見地から米国と一線を画するマハティール首相を好ましく思っていなかったとみられ、同構想に対して太平洋の真中に線を引かせはしないなどと真っ向から反対した。
当時世界の成長センターと化しつつあったASEANを含む東アジアでは日本のプレゼンスが急速に進み、他方、米国のプレゼンスは後退しつつあった。このままマハティール首相の構想が進めば東アジアに日本をキープレイヤーとする強大な経済圏ができかねない。それは米国として容認しがたいということであったかと思われる。
マハティール首相の構想でその機軸となるべき日本は米国の反対に直面し、同構想に距離をおいた。結局、日本も動くことがかなわず、EAEGはEAECと名称を変更し、APECの内部機構とするという形で事実上失速した。しかし、マハティール首相が「地域経済が進んでいく中でEAECは自然の流れである。日本にとって米国を取るかアジアを取るか苦しい立場となるが、アジアで生活している以上、北東アジアとASEANで協力し、その上でアジアを欧米のパートナーとする方がアジアの発展につながるだろうとする考えは日本の政策担当者達の心に残ったと聞く。
世界をみればマハティール首相が指摘したように米州、欧州の地域ブロックが一層の経済統合を進めている。インドなど南アジアでもしかり、中東も同様である。アフリカもアフリカユニオン結成へ動いている。2004−7年には欧州、米州において巨大経済圏が成立する見通しである。そんな中で、東アジアが、気流に身をゆだねつつエベレストを越える鶴の群れのように、段階を経て統合に向かう、というのは域内の人々に共感をえやすいだろう。東アジアの将来は東アジアの成長機会を相互に享受しあう中でしか保証されないからだ。また、当面の域内の政治課題として北朝鮮の国際社会への復帰があるが、まず東アジアとして受容することを模索されてもいいのではないか。
東アジアには米国とも、欧州とも異なる伝統的な価値観、社会関係の仕組みがある。法制度の組み立て、話し合い重視などの点において東アジア独特のものがある。既にLAW ASIAという法律関係者のネットワークができつつあると聞く。共通の価値観を基軸にして東アジアがまとまっていくのが自然というものであろう。

進展する経済分野での統合
東アジアの統合の動きは貿易投資の分野の自由化の議論から始まっている。最近では共通通貨建ての債券市場創設構想など金融面での統合の動きも出ている。
2000年11月のASEANプラス日中韓首脳会合で「東アジア自由貿易・投資地域」構想が提案され、東アジア・ビジョングループでこれを検討していくことで合意されたことから始まった。これが東アジアワイドでの地域経済統合の公的な議論のスタートである。構想には貿易だけではなく投資の自由化も含んでいる。同ビジョングループの報告書は2001年11月のASEANプラス日中韓の首脳会議で韓国の金大中大統領から紹介され、東アジアFTA(自由貿易地域)の検討をさらに進めることで合意を見た。リージョナルな統合形態である東アジアワイドでの地域経済統合の構想はこうして、一歩前に踏み出した。イニシアチブを目立って取ったのは韓国の金大中大統領であるが、その後2002年に入りシンガポールのゴー首相も推進する立場を明らかにしている。タイのタクシン首相も同様とされる。フィリピンのアロヨ大統領も2002年暮れに東京で開催されたセミナーでASEAN、日本、中国を含む東アジア地域における経済協力を強化し、地域統合統合を図っていくべきと講演したと報じられる。かつて1990年に東アジア経済圏(EAEG)を提唱し、これを容認しないとする米国との間で激しく対立したマレーシアのマハティール首相は近年は特に目立った発言をしていない。中国抜きにして東アジアの経済統合を語ることができないのも確かだが、中国の指導者による一歩前に出た発言も伝わってきていない。日本国内では「東アジア自由ビジネス圏構想」が経済産業省から2002年に提起され、人口20億人のこの地域でのヒト、モノ、資本の自由な移動の確保、投資ルールの整備、各種制度の調和による域内経済活動の円滑化などを提唱している。財政経済諮問会議もこれをめざすべきビジョンとして掲げている。これは共同市場:シームレス化をめざすものであるが、これも中長期的には東アジア共同体を視野にいれたものと理解される。経団連も新ビジョンの中で東アジア自由経済圏を提唱している。
他方、二国間、サブリージョナルな動きも顕著である。2002年1月に日本とシンガポールの間でFTAを含む経済連携協定が締結され11月末には発効した。2000年11月には中国とASEANがFTA交渉の開始で合意、日本も1年遅れて2001年にASEANとの経済連携協定の交渉に入ることで合意した。但し日本-ASEANの場合FTAを含むかどうか明示されてはいない。日中韓3国の経済協力構想も動き出しており、3国首脳会談での合意に基づき、それぞれのシンクタンクが参加して共同研究が行われている。日本と韓国の間の二国間FTAに関しても産官学協議が始まっている他、日本とタイ、日本とフィリピンとの間でFTAに関し共同研究あるいは作業部会がもたれている。マレーシア、台湾も日本とのFTA希望している。韓国もシンガポールとFTAに関する共同研究を2003年から開始した。
上述のようにまずFTAを模索する形で動き出した東アジア経済統合であるが、今後各国の利害調整など様々な課題に直面していくことは必至であるものの、いったん動き出せば経済あるいは市場がその進展を次々に促すという形で、進展していくのではないかとみられる。私は中南米における展開のようにリージョナル・サブリージョナルなFTAが絡み合う形で統合が進展していくとみている。

汎東アジア:東アジア共同体を呼びかける
しかし、東アジアでも、戦前の日本による近隣諸国侵略、植民地化の歴史があり、なお国民的融和ができていない。日中15年戦争の発端となったのは北京南東の盧溝橋事件であるが、その橋の袂に日本軍による戦争犯罪を展示する大きな博物館があり、迫力ある展示がなされている。韓国でも日本の植民地支配の歴史から反日の機運が強い。その他、東アジアは朝鮮戦争や中越戦争も経験した。カンボジアとベトナムの間の殺戮も記憶に新しく、更にはフィリピン南部のイスラム教徒の武装蜂起も止まない。マレーシアとシンガポールの間にも島の所有をめぐり紛争がある。南シナ海の島嶼をめぐる中国、フィリピン、ベトナム等の紛争も決着していない。
地域経済統合の機運が上述のように、高まっているが、経済的利害のみで統合が円滑に進むだろうか。仮に一定のレベルでの経済統合が形成されたとしても、共有される理念がなければその維持やあるいは更なる深化は制約されよう。この見地から、かつて故鹿島博士が提唱されたアジアの団結を、東アジア地域における"ひとつの東アジア"すなわち「汎東アジア」として再度呼びかけたい。一個人としての呼びかけであるが、あまり大仰に考えず、「東アジア社会の構成員としてアイデンティティを持ち、ともに助け合い、あい戦わず、繁栄を分かちあおう」との意思が共有できればいいと思う。そしてそうした気持ちが、国境、世代を超え、東アジア多くの人々に共有されることを望みたい。最初に提唱された故鹿島博士のお気持ちもそういうことでなかったか。しかし、欧州でもカレルギー伯爵の提唱から実現まで80年の歳月を要したように、東アジアでも共同体に辿り着くまでにはこれから途方もない時間が必要であろう。欧州統合でもそうであったが、各国の利害調整は容易なことではない。理念として「汎東アジア」の精神論を添えることでその加速化をはかることを呼びかけたい。賛同される方は周囲に必要性を語っていただければと思う。汎ヨーロッパ関係者も東アジアでの理念の盛り上がりを歓迎している。
東アジア共同体を目指すということは、当然ながら、域内各国にあらためて東アジアの一員であることの再認識を求めることになる。この構想が域内各国ごとにどういうインプリケーションを有するのか各国の友人達に分析をお願いしたいが、日本については米国からの精神的自立を意味するだろう。それはむろん東アジアの陣営に入って米国と対峙するということではない。東アジア共同体は米国との良好な関係なくして構築し得ない。欧州統合も勃興する米国、ソ連と対抗する意図を有したが、米国も西欧の立場に理解を示し、マーシャルプランで欧州統合を実質的に支援した。日本はいずれ欧州統合における英国のような形になるかもしれないが、かつてEAEGの議論の際に米国に遠慮して動きがとれなかったという事態は繰り返すべきではない。

留意すべき事項
他方で、かつてマハティール首相の東アジアの経済協議体構想に反対した米国はかかる動きをどう見ているか。2002年5月16日にワシントンで開催されたジョージワシントン大学とジェトロ共催の中国セミナーで講演したJ.ステイプルトン・ロイ元中国大使は、「東アジア地域経済統合が米国に対し差別的とならない限りこれを容認するだろう」とした。その一方で「中国のライジング パワーがアジアの政治経済を不安定化させるのではないか、中国がかつてドイツと日本が辿った同じ過ちを辿るのではないか」とも言及し、中国への根強い懸念を表明した。中国が東アジアの盟主となって各国を呑み込んでしまうのではないかとの中国脅威論は以前から東南アジアにも根強い。中国の指導者が上述のように東アジア全体での地域統合に関してさほど前面に出ないのは、こうした警戒感を意識してのことかもしれない。かつて、ドイツのコール首相は欧州統合の節目において、ドイツをヨーロッパにつなぎとめておくことの重要性について繰り返しドイツ国民に述べたと聞くが、同じ観点から、東アジア地域統合は中国あるいは日本をこの地域につなぎと、地域の平和的安定を実現するためにも意義があろう。また、東アジア地域統合のプロセスでしかるべき制度的調和が進む中で、中国自体変革を進めていくだろう。
次に留意すべきは、欧州における独―仏機軸のように、東アジア共同体においても日―中機軸が不可欠であるということである。地域内での覇権を目指すのではない。米国への対抗軸でもない。中小国家に配慮しつつ、東アジア共同体の創設に責任を持つという意味である。そして各分野における両国間の利害調整を早い段階から進めていく必要がある。日中の場に韓国の参加を得て、日中韓の北東アジアにおいて共同体の枠組みをつくっていくという手順もありうる。他方でASEANワイドの進展を促し、双方が入り組んでいくということであろうか。欧州においてもまずベネルックス3国でまとまり、仏独伊が加わってインナーシックスというコアを形成し、周辺に拡大するという過程を辿った。
最後に、時間がかかるということである。欧州は汎ヨーロッパの構想発表からから今日まで80年を要した。東アジアにおいては、1991年のマハティール首相のEAEC構想が萌芽といえるが、現時点からまずFTAレベルの経済統合ができるのが早くて15年。関税同盟・対外通商政策一本化のレベルに達するのが同じく20年。主たる基準認証の一本化及び主要な政策協調の枠組みが出来るのに同じく30年。安全保障の枠組みが出来るのに大体40年というところではないか。つまり、21世紀半ばに東アジア共同体を完成させる。これは中国の富強大国化と同じ流れであり、この共同体の中に大国中国がつなぎとめられることによってのみ、地域の平和が維持されることは理解されよう。そして、その時期は第二次大戦後100年である。各国の指導者、国民の努力の積み重ねで、域内の怨念は昇華しているとみるのは楽観的にすぎるだろうか。

東アジア共同体の具体的イメージ
いずれにせよ、東アジア共同体に辿り着くまでにはいくつかの段階がある。まず自由ビジネス圏をめざして、経済連携協定、FTAのレベルからはじめ、投資の自由化をすすめる。ついで労働力、資本といった生産要素の移動を徐々に自由にしていく。そして、政治統合を目指す。その具体的イメージを下記に整理した。私案であり、これでなければならずというものではない。"ひとつの東アジア":汎東アジアに賛同される方々の手でさまざまに構築されてよい。

理念:東アジア社会の一員としてのアイデンティティを有し、共に助け合って繁栄をかち合いつつ"ひとつの東アジア"をめざす。

目標

1. 域内の人々の厚生の最大化を実現する。
2. 困難に対して共同で対処する。
3. 若者に夢と希望の持てる機会を創出する。

具体的推進策

a. 関税・非関税障壁・投資規制など経済活動の国境障壁を相互に撤廃する。
b. 各国の法制度の調和を図り、ビジネスリスクを最小化する。とりわけ会社法、特許法、競争法など主要経済関連法制度を調和する。
c. 技能労働力の移動制限を緩和し、最終的には自由移動とする。資格、基準認証等の共通化をはかる。
d. 財政、金融、経済の政策協調を行う。共通債券市場など共同資本市場を創設する。
e. 有限のエネルギーの相互支援システム、環境破壊対処・保全の共同システムをつくる

―以上により東アジア自由ビジネス圏を立ち上げ、次の段階として東アジア共同体へ移行していくー

f. 対外経済政策の協調から一元化にもっていく。
g. 税制の調和を早期に図り、最終的にはEUを見習い付加価値税の一定税率の財源を共同行動に当てる。
h. 中央銀行を設立し、共通通貨を発行する。
i. 福祉、消費者保護といった生活者保護の分野での政策協調を行う。
j. 安全保障の相互乗り入れ。最終的にはNATOに類する同盟関係を築く。
k. 統合の成果を米国、オセアニアなど域外国と互換する。

最後に本文意見にわたるところは個人的見解であることをお断りしておく。
                         
以上 2003年1月 東京にて
参考文献
「パン ヨーロッパ」 鹿島守之助著 鹿島研究所 1961年
「東アジア経済統合へ日本は覚悟を固めよ」宗像直子 論座 2002年7月号
「アジア経済ハンドブック」江橋正彦、小野沢純 全日法規 2002年
「東アジア地域経済統合と中国」山田康博 ジェトロ中国経済研究月報 2002年6月
「私の履歴書:マハティール モハマド」 日本経済新聞 1995年11月から連載開始



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